三宅島 旅行・観光ガイド ブログ
三宅島 ふるさと味覚館・阿古小学校
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ふるさと体験ビレッジ
ふるさと体験ビレッジは、レストラン・温泉施設・保養施設で構成される村営の総合施設です。阿古地区の海岸沿いにあり、「二島」バス停から徒歩2分、錆が浜港からだと徒歩12、3分程度の場所です。
私は、滞在中に、レストランと温泉を利用しました。
- 三宅村が運営する「ふるさと体験ビレッジ」。
ふるさと味覚館
ふるさと味覚館は、ふるさと体験ビレッジの施設の一つで、新鮮な魚を使った定食や寿司が評判のレストランです。
ふるさと味覚館の建物は、ふるさと体験ビレッジの広い駐車場の目の前にあります。屋外には、テラス席やバーベキュー台があり、夏場は団体客の利用もありそうです。
- ふるさと味覚館は、村営のレストラン。
ふるさと味覚館の店内は、ファミレスのような雰囲気。清潔感があり、テーブル席と座敷があります。
ただ、入口でヤドカリの飼育をしていたり、金魚が入った水槽と餌が無造作に置かれていたりして、よく見ると、都会のファミレスとはなんだか違う雰囲気です。
私が入店した時は、子連れの家族が1組いたのと、後から大学生っぽい若者4人組が入店してきました。ゴールデンウィーク中にしては寂しい客入りですが、店員も少人数制らしく、コストは切り詰めているようです。
メニューを見ると、ジンギスカンやしゃぶしゃぶもあるようです(しゃぶしゃぶの豚は茨城産ローズポーク)。パスタ、カレー、うどん、そばなどのほか、定食類も充実しています。オーソドックスなメニューを揃えているのは、島民や単身赴任者向けなのかもしれません。
やはりせっかくなので、寿司を注文することにしました。注文したのは、地魚寿司(1,000円)。三宅島近海で捕れたカジキマグロ、スズキ、カンパチといった新鮮なネタが惜しげもなく使われていて、かなり満足できる一品でした。
ふるさとの湯
ふるさとの湯は、ふるさと体験ビレッジ内にある温泉施設。ふるさと味覚館とは別の建物になっていて、ふるさと味覚館のすぐ裏手にあります。
入浴料は大人500円と、銭湯並みの価格設定です。
- ふるさとの湯は、村が運営する温泉施設。
中はそんなに広くないですが、清潔感があり、初めてでも利用しやすいです。
夕方に行ったら、地元の人で結構賑わっていました。利用者は子どもからお年寄りまで幅広く、コミュニケーションの場としても機能しているようでした。
- ふるさとの湯の脱衣場。
露天風呂から見える夕日が絶景で、これだけでも、ここに来る価値があると思います。
今崎海岸を歩く
ふるさと体験ビレッジの前の道をまっすぐ歩いていくと、ごつごつとした岩場の風景が広がります。この辺りは、今崎海岸と呼ばれていて、海岸に沿って、見通しが良く歩きやすい道路が造られています。
一帯が黒い岩に覆われていることからも分かる通り、今崎海岸は、噴火により流れ出た溶岩で形成されました。
史実によると、今崎海岸を形作ったのは、1643年(寛永20年)の噴火だそうで、当時この地にあった集落が甚大な被害を受けたという記録が残っています。
- 噴火により2つあった穴のうち片方が崩落したメガネ岩。
今崎海岸には、メガネ岩という奇岩があります。海に張り出した岩にアーチ状の穴が空いている場所です。この岩も、1643年の噴火で形成されたものと考えられ、長年波によって浸食され、「海食洞」が形作られました。
かつては、眼鏡のように、穴が2つ空いていたそうですが、1959年の伊勢湾台風により、片方が崩壊してしまい、現在の形になっています。
「メガネ」では無くなった今も、夕日の撮影スポットとして、人気があります。
今崎海岸の周辺は、樹木が無く、見渡す限り枯れ木が広がっています。恐らく、森林があった場所が、丸ごと溶岩流に飲み込まれたのでしょう。噴火の恐ろしさがよく分かります。
今崎海岸には、メガネ岩以外にも、穴の空いた岩があります。その一つが、今崎海岸の西端にある岬の先端です。この岬は、三宅島の最西端でもあります。
このあたり一帯に見られる岩の縦の割れ目は「柱状節理」と呼ばれるもので、溶岩がゆっくり冷えて固まった時に、収縮してできる形状です。
溶岩流の影響で、不毛の地となったため、異様なまでに見通しのよい道が続きます。この日は、雲一つ無い青空だったので、歩いていて気持ちが良かったです。
ふと、海岸沿いに、白い建物がぽつんと建っているのが気になりました。ぱっと見、工場のように見えますが、それにしては人が居る気配がありません。
近付いて見てみると、「三宅村火葬場」と書かれていました。建物の脇には観音像もあります。住宅地からは離れていますし、海が近く絶景が望めますし、火葬場を建てるには、最高のロケーションなのかもしれませんね。
役場の方まで見渡せる場所に来ました。こうして見ると、溶岩流の被害が広範囲に渡っていたことが分かります。こうした地形を「溶岩扇状地」と呼ぶそうです。
この一帯が溶岩流に飲み込まれたのは、江戸時代の話ですが、今なお、まともに植物は育ちません。根を張るだけの土や養分が無いのでしょう。
火山体験遊歩道(旧阿古小学校・阿古中学校)
1983年の噴火で、阿古集落は壊滅的な被害を受けました。「火山体験遊歩道」では、当時の被災状況が生々しく残されています。
1983年(昭和58年)10月3日、七島展望台付近に生じた割れ目から噴火しました。噴出した溶岩は、その日のうちに阿古地区へ流れ込み、多くの民家を焼いたそうです。
この噴火で、粟辺に広大な溶岩流跡が形成されたほか、新澪池の水蒸気爆発を引き起こしました。一方で、人的被害は無かったそうです。
2007年に完成した火山体験遊歩道は、集落を飲み込んだ溶岩流の上に造られた遊歩道(入場無料)です。ここには、旧阿古小学校・阿古中学校があったほか、およそ340世帯の民家がありました。
被災後、阿古小学校・阿古中学校の校舎はそのまま残されました。被災したのが30年以上前なので、建物はだいぶ古びた様子です。
校舎の周りは雑草に覆われています。年月が経過し、すっかり自然に還ってしまったようです。体育館の屋根は崩落していて、骨組みだけが残っています。
校舎の手前に見える構造物は、プールのようです。階段状になっているのは観覧席で、噴火のあった年に新設されたもの。9月に一度使われた後、30年間そのまま放置されています。
では、早速中へ足を踏み入れてみます。
遊歩道は、観光地として整備されているため駐車場も併設されています。ただ、特に係員が居るわけではなく、無料で自由に出入りできます。
溶岩流に飲み込まれた面積はおよそ19haで、当時の集落の大半が消失しました。溶岩流の厚みは10メートルにも達し、2階建ての校舎がすっぽり埋もれるほどの高さがあります。
溶岩流の温度は、灼熱の1,000度。200日が経過しても、分厚い溶岩の内部は、500℃もあったそうです。
恐ろしいのは、これが突然の噴火であったことと、噴火から2時間後には、集落に溶岩流が流れ込んだということです。このため、住民は家財道具を置いたまま、命からがら坪田方面へ避難したそうです。
幸い、この噴火による死傷者は無く、島民の結束の強さを示す結果となりました。(三宅島は、2000年にも噴火しましたが、この時も一人の死傷者も出さなかったそうです。)
通りの入口から見て、手前にあるのが、阿古中学校の校舎跡です。噴火当時、阿古中学校の生徒数は61名、教職員数は18名だったそうです。噴火当日は、前日の運動会の振替休日だったため、校内にいた生徒は少なかったと思われます。
阿古中学校は、まるで溶岩流をせき止めるような格好となり、2階建ての校舎の全体が溶岩に覆われてしまっています。実際、阿古集落を襲った溶岩流は、校舎によってせき止められ、この先に被害は及んでいません。
- 埋もれた校舎を上から覗き込む。
校舎の2階を見下ろす状態で眺めるのは、とても不思議な気分です。
1983年噴火の溶岩は、玄武岩質で粘性が低く、高い流動性が特徴だったそうです。このため、校舎の中にも溶岩が入り込んでいます。
体育館は、小学校と中学校の間にあり、位置的に両校が共同で使用していたのだと思われます。
屋根は全て崩落していて、鉄骨もぐにゃりと変形しています。崩壊した所から溶岩が流れ込んでいるのが分かります。
阿古小学校は、噴火当時、児童数99名、教職員数16名でした。こちらは3階建てのため、最上階が溶岩から顔を出しています。
3階には、教室のほか、音楽室と図書室などがあったそうですが、グランドピアノや図書は無事だったとのこと。窓ガラスやサッシは、熱により破損しています。
阿古を覆った溶岩は、表面がトゲトゲしていて多孔質な一方で、内部は均質に固まっています。このような溶岩を「アア溶岩」と呼ぶそうです。表面のトゲトゲは、溶岩が空気に触れて早く固まるために生じるものです。
溶岩の上には、ほとんど植物は育ちませんが、ハチジョウイタドリという多年草が所々に芽を出しています。この植物は根が長く、溶岩の下にある土まで届くため、このような環境下でも育つのだそうです。ハチジョウイタドリが枯れると、その場所に土ができ、少しずつ緑が再生していきます。
- 探索日
- 2014/04/30 - 05/03
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