北大東島 旅行・観光ガイド ブログ
北大東島の廃墟・燐鉱石貯蔵庫跡・西港・魚市場
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企業統治の島
北大東島は、南大東島と同じく、八丈島出身の玉置半右衛門が率いる玉置商会によって開拓された島です。開拓後は、市町村などの行政は置かれず、南大東と同様に企業統治が敷かれました。
商店、学校、警察、郵便といった住民サービスは全て玉置商会が担い、独自の紙幣である大東島紙幣(または、玉置紙幣とも呼ばれる)が、南北大東島で流通していました。労働者への給与は全て大東島紙幣で支給され、日本円との交換には申請が必要だったため、労働者が逃亡しにくい状況だったといいます。南北大東島は、日本で唯一の企業植民地の事例とされています。
北大東島の燐鉱石採掘
北大東島は、かつて燐鉱石の採掘が盛んでした。
前述の通り、島を開拓したのは玉置商会ですが、当初は南大東島と同じく、サトウキビ栽培のために土地が切り拓かれ、耕作地が広がりました。ところが、その過程で燐鉱石が見つかり、一転、島は燐鉱採掘で活況を呈したといいます。昭和初期には、出稼ぎ労働者が流入し、島の人口は2,700人まで膨らんだそうです。出稼ぎ労働者は、国内だけでなく、台湾人なども多かったとのこと。
太平洋戦争の敗戦後、大東諸島は米軍の統治下となりましたが、米軍によって燐鉱石の採掘は続けられ、設備の機械化が進められました。
昭和25年、およそ40年余り続けられた燐鉱石の採掘が終わり、閉山となりました。機械化の結果、燐鉱石の質が落ちて評判が悪くなったことと、鉱床を掘り尽くしたことが、閉山の理由だそうです。
西港周辺の廃墟群
北大東島の西港周辺には、未だに燐鉱石の貯蔵施設や積み出し施設の廃墟が残っています。
海岸近くにあるレンガ造りの廃墟は、燐鉱石を乾燥させるためドライヤー施設の残骸だそうです。
西港は今も使われている港ですが、接岸せずにクレーンで積み下ろしするだけなので、コンクリートで固められた岸壁があるだけです。周囲には燐鉱施設の廃墟が広がっていて、現役の港とは思えない荒廃した風景が異様に映ります。
燐鉱石貯蔵施設
燐鉱石貯蔵施設は、村の観光マップにも掲載されている北大東島の見所の一つです。
村公式の観光スポットにも関わらず、廃墟への立ち入りが規制されていないのは、なかなか良心的です。
コンクリート製のトンネル跡が2本あるのは、かつて燐鉱石の積み出しに使われたトロッコ跡だそうです。立ち入りが制限されていないため、トンネル内に入ることも可能です。
トンネル内は草が生えていたり、コンクリ片が転がっていたりで、普通に歩ける状況ではありませんが、離島とは思えない巨大構造物にわくわくが止まりません。よく晴れた休日でしたが、ほかに観光客の姿は無く、この風景を独り占めです。
ここには巨大な木造の倉庫があったようですが、現在はコンクリート製の基礎と、石壁が残っているだけで、まるで古代遺跡のようです。これだけの規模の施設ですから、相当な賑わいだったことでしょう。
石積みの建物は、珊瑚石灰岩で造られているそうです。海風をもろに受ける場所のため、風化によって建物は崩壊しつつあります。
トンネルの隣に、部屋のように仕切られた空間がありました。倉庫か事務所の跡でしょうか。
- トンネルの隣に壁で仕切られた広い空間があった。
村が設置したと思われる説明パネルに、当時の写真が掲載されていました。現在の様子からは想像できないほど、巨大な施設だったことが分かります。
- 現役時代の東洋製糖燐鉱貯蔵場。
西港一帯の施設にはレールが敷かれ、手押しではあるものの、荷物の運搬にはトロッコが使用されていました。
- 燐鉱石をドライヤー施設に運び込む様子。
貨物船への積み込みには、艀船を利用していたようです。北大東島の海岸線は、海面まで落差があるため、積み出しは大変な作業だったと思われます。
- 燐鉱石の積み出し拠点となった西港。
トンネルを抜けたトロッコ線は、そのまま港の岸壁まで続き、クレーンやウィンチを使って、船へ積み込んでいたようです。現在、線路跡はほとんど剥がされていますが、一部で線路を取り除いた跡が残っていました。
それにしても、海面までものすごい落差です。この岸壁は現在使われていませんが、足がすくむほどの落差がありました。
魚市場
西港のすぐそばには、魚市場があり、毎日新鮮な魚が運び込まれるそうです。島の近海では、マグロやサワラ、カジキなどが獲れるらしく、島民や民宿のご主人が買い付けにやってくるとのこと。
市場が開くのは、漁船が帰ってくる昼過ぎ。その場で漁師がマグロを解体してくれるので、見物しているだけでも楽しそうです。
- 西港のすぐ近くにある魚市場。
市場が閉まっている時間帯は、人通りもなく静かです。
東洋製糖事務所跡・社員倶楽部跡
魚市場に隣接して建つ廃墟は、東洋製糖北大東出張所の建物跡です。
東洋製糖は、島の開拓を主導した玉置商会から経営権を譲渡された企業です。製糖会社ではありますが、ここ北大東島では、燐鉱石の採掘事業に力を入れていました。
西港に面した高台に建つ廃墟群は、どれも非常に分厚いコンクリート壁で造られており、当時の東洋製糖の繁栄を物語っているかのようです。
出張所跡の隣に建つ、階段状の建物跡は、東洋製糖社員倶楽部跡だそうです。ここには、東洋製糖の社員が集う遊技場があったとされます。
- 斜面に3棟並んでいるのは、東洋製糖の社員倶楽部跡。
今はどの建物跡も屋根がありません。自由に立ち入りが可能ですが、建物内部は空っぽで、説明パネルも無いため、何も知らない観光客は、ここが何の史跡なのかが分からないと思います。
なお、この一帯には、ほかにも東洋製糖の倉庫跡やディーゼル発電所跡、社員向けの浴場跡などが点在し、歴史的に重要なエリアとなっています。
西港公園
西港に隣接して、きれいに整備された西港公園があります。島の西側に位置し、海に沈む夕日を眺めるには、これ以上ないくらい良いスポットです。
今回宿泊した二六荘から近かったこともあり、ぼーっと海を眺めるには最適な場所でした。
- 探索日
- 2013/05/01 - 03
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