足尾銅山 旅行・観光ガイド ブログ
小滝小学校・小滝坑・小滝の里
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小滝地区と小滝坑
小滝(こだき)坑は、本山坑の真反対に位置する坑口で、本山坑と小滝坑は真っ直ぐ貫通しています。小滝も本山も、江戸時代に採掘が始まった古い坑口で、明治に入ってから坑道を拡張し、互いを貫通させることにしたそうです。
小規模ではありますが、本山坑と同様に、小滝にも選鉱所と製錬所がありました。また、社宅が造られ、最盛期には、この山間の狭い土地に約1万人が居住したといわれます。
その後、合理化が進められ、小滝坑が廃止されると、小滝地区は次第に衰退。昭和30年代に廃村となりました。
小滝へ行く
小滝地区は通洞駅から5kmほど離れていて、最寄りの原向駅からも4km以上あります。その上、公共交通機関が無く、また、ずっと上り勾配なので、レンタサイクルの自転車でもなかなか厳しいと思われます。
そういうわけで、今回は通洞からタクシーを利用し、まずは小滝小学校跡を目指しました。
- 小滝小学校の石段。
県道293号線に入ると、道幅が狭くなり、車のすれ違いができない場所がしばしば見られます。舗装されていますが、くねくねとした林道のような道です。
この道は元々、小滝坑の発見により江戸時代に開拓された道であり、小滝の発展に伴って整備されたものです。小滝坑が無ければ、何もない山間のこの場所に、こんなに立派な舗装路はできていなかったでしょう。
道を進んでいくと、本当にこんな山の中に、一万人規模の集落があったのかと半信半疑になります。
ちなみに、小滝地区は携帯電波が入る場所が限られています。ドコモでも圏外になることがしばしばあるので、注意が必要です。
小滝小学校跡
小滝小学校は、古河鉱業の私立小学校として明治26年に開校し、大正時代には、児童数1,000人を超えるマンモス校となりました。
鉱区の閉鎖に伴う閉村により、昭和31年に廃校となっています。
県道脇に小学校跡の看板がぽつんと立っているので、一見どこが小学校だったのか分かりませんが、奥の石段を上った先が小学校跡になります。
石段を上りきると、平坦な土地が出現します。広めの公園という感じで、小学校としては、特別広い印象はありません。ここに1,000人以上の児童が集ったことを思うと、当時の過密度合いが想像されます。
- 校門の残骸と思われる石柱。
周囲を切り立った岩山に囲まれ、地区全体が深い谷間に位置しているため、小滝には広い土地がありません。こうした条件下で、小学校建設のために、これだけの敷地を確保するのは大変だったと思います。
校舎の跡地は建物の基礎を残すのみで、古代遺跡のような雰囲気です。当時の写真によると、校舎は平屋建てで、一部が二階建て(もしくは吹き抜けの講堂)だったようです。写真を見る限り、校庭は狭そうですね。
ちなみに、小滝小学校の奥にも、銅山労働者の社宅が建ち並んでいたそうです。
- 小滝小学校の当時の様子。かなり立派な学校だった。
足尾町に眠る14箇所の「堆積場」
タクシーに乗った時、運転手さんから、この町に眠る「堆積場」についての話を聞きました。
足尾町内には、銅山時代の汚染物質を埋め立てた「堆積場」と呼ばれる施設が、把握されているだけで14箇所あります。
簀子橋堆積場のように、堰き止めダムのような巨大なものもありますが、多くは石垣を積んで土を掛けただけの簡易なものだそうです。(運転手さん曰く「見えないように隠しただけ」)
「山の中に不自然に石垣が積まれ、木が植えられている場所があったら、そこは堆積場だ」とのことでした。
- この辺りには社宅と沈殿池があったらしい。
近年、これが明るみに出るきっかけとなったのが、東日本大震災でした。堆積場の一つ、源五郎沢堆積場が決壊し、わたらせ渓谷鉄道の線路を寸断。さらに、渡良瀬川に流れ込み、下流域まで汚染が広がりました。
とっくの昔に終わったと思っていた足尾鉱毒事件が、再発したのです。
運転手さんの話では、「当時、住民総出で慌てて食い止めた」ということで、長年隠してきた負の遺産が流出した焦りが相当あったのだと思います。
川に流出した堆積物は、原堆積場に移動。線路を塞いでいた堆積物は、袋詰めにして、再び源五郎沢堆積場へ戻したそうです。
小滝地区にも、至る所に石垣で固められた場所があり、その一部は、不自然に段々状の地形を形成しています。はっきりしたことは分かりませんが、そうした場所には、汚染物質が埋まっている可能性があります。
小滝の里
小学校跡から先に進むと「小滝の里」と書かれた広場に至ります。
ここにはかつて、選鉱所や製錬所、後年には集会所などが造られました。まさに、小滝地区の中心部といえる場所です。
- かつて製錬所などがあった「小滝の里」。
石碑には、「ここに小滝の里ありき」と書かれていて、署名は「小滝会」となっていました。
恐らく、小滝で働いていた人や、ここで生まれ育った人が、協同で造ったのでしょう。足尾の中でも、ここ小滝地区は、特に地元の団結力が強いそうで、集落が無くなった今でも定期交流が行われているそうです。
銅山の合理化が進み、大正時代までには、小滝の製錬所と選鉱所は廃止されたそうです。市街地へのアクセスが悪く、広い土地も確保できない小滝では、大規模な施設を造ることができなかったため、古河鉱業は、徐々に通洞へ投資を集中させていったのです。
現在も、基礎と思われるレンガ積みの構造物が残っています。
小滝坑と小滝橋
小滝の里を過ぎて鉱運橋を渡ると、もう小滝坑は目の前です。
鉱運橋を渡った先にあるのが、鉱夫浴場跡です。小滝坑から出てきた鉱夫たちは、ここで身体の汚れを落としていたそうです。
- 小滝坑の鉱夫が身体の汚れを洗い流したという浴場跡。
鉱夫浴場跡の先へ進むと、赤く錆びついた鉄橋が姿を現します。これが小滝橋です。
よく見ると、小滝橋の先には小滝坑があり、橋はまっすぐ坑口へ繋がっています。
前述のとおり、小滝坑は本山坑の反対側に位置する坑口で、江戸時代から採掘が行われてきました。
簡易な装飾が施されていますが、意外にも入口はシンプルです。
- 小滝坑の坑口。
小滝坑の対岸にある洞窟のような穴は、明治時代まで使われていた火薬庫の跡だそうです。
銀山平へ
小滝坑から先は、急に道幅が狭くなります。
この先は、銀山平(ぎんざんだいら)と呼ばれる地区になります。その名の通り、銀が産出したことに由来するそうですが、銀山平が果たした役割は銀とは違うところにあります。
銀山平には、製材所が設けられ、足尾銅山の資材供給の基地として機能していました。最盛期には200人が従事する規模で、東洋一と言われたそうです。周囲には140戸の社宅が建ち並んだといいます。
製材所の木材は、近くの根利(ねり)山から索道を使って運ばれていました。
5月だというのに、足尾では桜が咲いています。この時期に花を付けている桜は、牡丹桜(ボタンザクラ)だそうです。
また、この時期見頃を迎えるのが、ヤシオツツジです。小滝地区を歩いていると、あちこちで見かけました。
製材所が閉鎖されたのは、小滝坑の閉坑よりもっと前の昭和14年。閉鎖の主な理由は、木材の供給元になっていた根利山の森林資源が限界に達したためでした。
35年間に渡って足尾銅山に木材を供給し続けた大製材所は、あっけなく閉鎖され、索道や建物はほぼ全て撤去されたそうです。
現在は、不自然に整地された土地だけが残されています。
- 探索日
- 2014/05/04 - 05
このレポートには、さば柄氏 ・ nokinoshi氏 からご提供いただいた写真が含まれています。
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