足尾銅山 旅行・観光ガイド ブログ
足尾銅山 本山製錬所・足尾本山駅
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古河橋
- 赤倉地区と製錬所を繋ぐ古河橋。
古河橋は、赤倉地区と本山坑・本山製錬所を結ぶ重要な橋梁でした。
鉄骨と木材を組み合わせた構造で、現存するものとしては、国内最古の道路鉄橋だそうです。現在は老朽化のため通行禁止となっています。
本山製錬所(足尾本山駅)
明治17年に、当時の最先端技術を導入して稼働を始めた銅の製錬所です。
銅山閉山後も、輸入鉱石の製錬が続けられ、平成のはじめまで稼働していたようです。現在も、一部の施設は現役で使われています。
大正のはじめになると鉄道が引かれ、精製された粗銅が貨物列車によって運送されるようになりました。本山製錬所には「足尾本山駅」という貨物駅が設置され、銅山が閉山する昭和末期まで営業が続けられました。
もちろん、貨物駅や製錬所内への立ち入りはできませんので、入口の柵越しに眺めるしかありません。
古川橋を渡った先をまっすぐ進むと、本山坑があります。また、その途中には、削岩機用の圧縮空気を生産していた本山動力所の建物があります。
足尾貨物線跡
現在、間藤~足尾本山間の鉄道免許は失効し、名実ともに廃線となっていますが、足尾本山駅の鉄道設備は、そのまま残されています。
南橋地区から本山製錬所までは、線路に沿って遊歩道がある(訪問時は通り抜け不可)ので、線路脇の道から貨物線跡を撮影できます。腕木式信号機などが残っていました。
対岸から眺める本山製錬所
川の対岸から製錬所全体を眺めることができます。
製錬施設の上段に並んでいるタンク群は、排煙の脱硫を兼ねた硫酸工場の跡です。現在、工場の建物は全て撤去されています。
1956年に稼働を開始したこの施設には、亜硫酸ガスから硫酸を取り出し、製錬所の排煙を無害化する目的がありました。足尾銅山で、硫酸の生産がさかんに行われるようになったのはこのためです。
本山製錬所全体を見ると、2009年訪問時にはあった施設がいくつか取り壊されていて、すっきりした印象を受けます。
いつ倒壊してもおかしくないような骨組みだけの建物もあったので、当然の措置だとは思いますが、大煙突周辺の建屋もまるごと無くなっていたのは残念でした。どうやら、行政の指導が入ったらしく、数年掛けて取り壊しを進めていたようです。
- 前回訪問時には、骨組みだけの施設跡があった。(2009年撮影)
- 前回訪問時には、大煙突に向かって隙間無く建屋が並んでいた。(2009年撮影)
大煙突周辺は建物が無くなったため、コンクリートの基礎が露出しています。ちょっと寂しい風景ですね。
製錬所の周囲が皆禿げ山になっていることからも分かるように、製錬所から排出される亜硫酸ガスが、長年に渡って足尾の山々を汚染してきました。製錬所の北部は、このガスの影響で、現在も不毛の地となっています。
後年、ここ本山製錬所では、亜硫酸ガスを排出しない製錬手法が確立されました。足尾で開発された技術は、国内外の製錬所で活用され、今も世界の自然を守っています。
愛宕下社宅
愛宕下は、製錬所の大煙突を向かいに望む地区で、本山地区の居住エリアとしては、最北端になります。
かつて、この地区にも社宅が造られ、「赤長屋」と呼ばれました。明治40年代に14棟、大正に入るとさらに増設されたそうです。明治40年には、およそ140軒の店が並んでいたということですから、その賑わいは凄かったのでしょう。
現在、ほとんどの社宅は取り壊されており、その跡地には木が植えられています。
- 昭和40年頃の愛宕下社宅の様子。
最盛期の本山地区の写真を見ると、山間の狭い土地に、びっしりと建物が建ち並んでいる様子が窺えます。今からは想像できないほどの発展ぶりです。
- 最盛期の本山地区。
- 探索日
- 2014/05/04 - 05
このレポートには、さば柄氏 ・ nokinoshi氏 からご提供いただいた写真が含まれています。
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