神津島 旅行・観光ガイド ブログ
神津島のトロッコ軌道(線路跡)・ボンブ
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神津島に残る廃線跡
赤崎遊歩道がある一帯を名組湾を呼ぶそうですが、この名組湾には、離島に似つかわしくない不気味な遺構が残されています。その遺構があるのは、赤崎遊歩道の向かいの岩場です。
「廃線跡」と言ったら良いのでしょうか。こんな絶海の孤島に鉄道が通っていたなんて、信じられませんが。しかし、紛れもなく、鉄道のコンクリート橋が残されているのです。
かつてここには、抗火石の積み出しを行っていた港がありました。この廃線跡は、採石場から運び出した石材を船まで運ぶためのトロッコ跡です。
背後にある神戸山は、山全体が抗火石でできています。抗火石は、軽量で加工がしやすく、建材として重宝されたそうです。これに目を付けた島外の企業(日産化学工業)が神戸山に採石場を拓き、運搬施設を建設したという経緯です。
採石場が稼働したのは、戦前の1942年(昭和17年)頃だと云われています。採石場から海岸までは、索道(ロープウェー)が造られ、海岸まで降ろした石材を、トロッコに乗せて船まで運んだというわけです。昭和30年代にトロッコが廃止されるまでは、付近に仮設の小屋も造られ、多くの労働者が働いていたそうです。神津島の意外な一面といえます。
残念ながら、現在は、索道施設や引き込み線などの跡は完全に消失していて、そのような施設があったと文献で伝えられるのみとなります。
なお、採石場そのものは、なんと2000年(平成12年)まで稼働していたとのこと。近年は道路が通じたため、トラックでの運搬が一般的になっています。
- なぜかバーベキューできそうな一角があった。
ここ名組湾に道路が通じたのは、昭和60年代の初めだそうです。赤崎遊歩道などの施設が造られたのは、その後の話になります。かつて、多くの人が働いた港の跡地に、様々なレクリエーション施設が造られたということですね。
トロッコ跡のすぐそばに、なぜかバーベキュー台がありましたが、これも、道路が通った後に設置されたものでしょう。現在は、荒廃していて、使える状態ではありませんでした。
- 高架橋の上は立ち入り禁止。
トロッコは当然手押しだったので、機関車などが走っていたわけではありません。ですから、線路はできるだけ平坦に敷かれていました。
戦前に造られたとは思えないほどきれいに形状を残すコンクリート橋は、線路を固定する部分だけコンクリートが盛られています。これは、この橋梁自体が波で洗われることを想定しての設計だと思われます。
当時の写真を見てみると、高架橋に並べられた枕木の上に、レールが延びている様子が確認できます。枕木の間に置かれている板は、トロッコを押す作業員用の足場でしょうか。眼前に海が迫る岩場に敷かれた線路は、異様な光景として映ります。
繰り返しになりますが、戦前に建設されたはずのコンクリート橋梁が、今なお橋としての体を成しているというのは、なかなか驚くべきことだと思います。
よく見ると、上部のレール部分と、下部の梁とが一体となっており、これによって橋の強度が保たれていることが分かります(ラーメン構造)。また、むき出しの鉄骨を見ると、華奢な脚にもしっかりと鉄骨が入っており、橋を補強しています。これにより、表面が風化しても、崩壊しにくい構造となっています。
橋の下に、トロッコのものと思われる車輪が置かれていました。これが当時のものだとすると、文化財級の代物だと思いますが、こんなところに転がしておいていいのでしょうか。
神戸山を背景にコンクリート橋を眺めると、かつてここに造られた施設の巨大さが想像されます。恐らく、あの山の頂上付近から、この近くまで索道が張られていたのでしょう。
現在、索道の痕跡は全く確認できません。
一本に見えるコンクリート橋は、実は二つに分かれていて、線路は途中、大きな岩に乗り上げています。岩を境目として、同じ構造の橋梁が二つ造られているというわけです。
当然、海に近い方の橋梁は、劣化がひどく、鉄骨がむき出しになっている箇所が多く見られます。また、橋桁が浮いてしまっている場所もあり、強度的にも不安な状態です。
二本の橋梁を過ぎた線路は、再び岩に乗り上げ、大きく右手にカーブします。この先、線路は「ボンブ」と呼ばれる場所まで繋がっています。
ちなみに、この周辺、鳥肌が立つほど大量のフナムシが群れをなしています。そのため、一歩一歩慎重に足元を確認しながら足場を確保していきました。幸い、フナムシは、大きな岩の上に登ってこないので、飛び石の要領で進んでいきました。よほどの物好きでなければ、奥まで進もうとしないでしょう。
「ボンブ」の様子を確認したかったので、線路がある岩の上へ登りました。ちょうどコンクリート橋の終点の岩場が、足を掛けやすく、登りやすかったです。岩の上に立つと、早速、終点にある支柱の姿を確認できました。
改めて、上から眺めると、凄い構造物ですね。ぜひ、このまま後世まで残って欲しいと思う遺構です。
高架橋を過ぎると、線路跡は岩の上を右手に進んでいきます。岩の表面は、コンクリートで固められ、枕木がはまっていた跡が溝として残されています。所々、枕木が残っている場所もありました。
線路はここで、岩の亀裂を小さなコンクリート橋で越えていきます。この橋梁は、ここに登らなければ存在を知ることさえできないほど小さなものです。
小橋を渡った線路は、切り通しを抜けて、いよいよ「ボンブ」へと到達します。ここまでの道のりは、ほとんど高低差なく造られており、岩を削ったり、コンクリートを盛ったりして、手押しのトロッコが進みやすいよう高さを合わせているようでした。
さて、終点に到着しました。ここで当時の写真を見てみると、どのように積み出しを行っていたかが理解しやすいです。
奥に見える支柱の根元から、クレーンの腕にあたる部分が斜めに伸びていて、支柱はクレーンを支える役割だったことが分かります。運搬船は、支柱が建つ岩から距離をとって停泊しており、クレーンで吊り上げた石材を、船員がキャッチしていたというわけです。
それにしても、自然の地形にほとんど手を加えずに、これだけ実用的な港湾設備を築いたことに驚きます。後世に語り継ぐべき産業遺跡だと思いました。
余談ですが、トロッコ跡のすぐそばに、「踊り岩」という名所があります。褶曲した地層が表面に露出しているスポットです。トロッコ散策に行く際は、ついでに寄ってみると良いと思います。
- 探索日
- 2015/04/18 - 19
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