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桂昌寺跡・地獄極楽 (宇佐市安心院町)
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桂昌寺跡 地獄極楽について
江戸末期、庶民に仏教の教えを説くために造られた教育施設です。文字通り、地獄と極楽の世界を疑似体験でき、ストーリー仕立てのアミューズメントパーク的な施設になっています。こうした施設が現在も残っている例は、全国的にも珍しいそうです。
桂昌寺跡 地獄極楽の場所と行き方
国東半島の外れにあり、宇佐市の南部に位置しています。国道500号線沿いにあり、熊野磨崖仏方面からだと、中山香駅を経由して、県道42号線・県道717号線を利用することで、ショートカットできます。
桂昌寺の歴史
入口には看板が掲示されていて、駐車場も20台分完備してあり、観光地として整備されています。しかし、観光客の姿はありません。正月休みだからでしょうか。
- 駐車場に車を置いて、この階段を上る。
駐車場に車を置いて、階段を登っていくと、小さな建物が目に入ります。これが、桂昌寺のお堂にあたるそうです。中には数体の仏像が祀られていて、簡易な賽銭箱も置かれていました。ただ、普段は無人であり、管理人が対応してくれるようなことはありません。堂内には、訪問者ノートがあり、旅行者のコメントが書かれていました。
桂昌寺跡と呼ばれる当施設ですが、実は、お寺としては、江戸時代に一度廃墟となっていたようです。
桂昌寺が開基されたのは、室町時代中期。しかし、江戸時代には住職が居なくなり、荒廃していたそうです。時は流れ、江戸時代の末期、この地を訪れた天台宗の僧侶 午道法印(ごどうほういん)が、その様子を見かねて復興を呼びかけました。
午道法印は、この寺を、天台宗の教育施設として再建しました。その構想は、当時としては非常にユニークなアイディアでした。
閻魔大王がいる恐ろしい「地獄」の世界、阿弥陀如来がいる美しい「極楽」の世界、この二つの対比を、寺の裏山に洞窟を掘ることで表現しようとしたのです。午道法印の教えに共感した多くの村人が、この施設の建設に協力したそうです。
- 地獄極楽を上から見た様子。
地獄道に入る
現在もそのままの形で遺る教育施設「地獄極楽」を見ていきましょう。入口は、お堂から少し離れたところにあります。まさに洞窟の入口という感じ。
午道法印率いる村人たちは、手掘りで約70メートルもの洞窟を掘り進めたそうです。現在は、そのうち約40メートルほどの坑道が公開されています。
- まずは地獄の入口に入ります。
洞窟に入ると、そこは地獄の世界。地獄道は36メートルあるそうです。まずは、閻魔大王による裁判を受けます。ここで地獄行きか極楽行きかが決まります。
のみの跡が残る手掘りのトンネルを進みます。裸電球が下がっているだけの不気味な空間です。
地獄道は、ちょっとした回廊のようになっていて、その間に、恐ろしい地獄の様子を垣間見ることができます。
まず出会ったのは、三途の川の奪衣婆。三途の川の渡し賃を持たずにやってきた死者から衣服をはぎ取る老婆だそうです。恐ろしい。
血の池地獄もありました。そばには、赤鬼と青鬼が立っています。よくできています。
極楽道に入る
地獄道を進むと、やがてお堂の裏側に見えていた空間に出てきます。ようやく地獄が終わりました。
- ようやく地獄を脱出。
極楽道は、25メートルに及び、菩薩像や阿弥陀如来像などが並ぶトンネルとなっています。ただ、ここはまだ極楽浄土ではないようです。
「極楽浄土へ たて穴(針の耳) 最後に登る」と書かれた立て札がありました。極楽浄土はこの先のようです。行ってみましょう!
- さあ、極楽浄土へ。
通路の先は行き止まりでした。いや、頭上から鎖が垂れ下がっていて、上の方に出口が見えます。「あれが極楽浄土!」
私の握力と腕力では登れませんでしたが、弟はなんとか登り切っていました。外に階段で登る道もあるので、そちらから登ってみると、なるほど、確かにたて穴は極楽浄土へ続いていました。
- 縦穴を上から見る。
- 極楽浄土の出口。
たて穴を出たところに、阿弥陀如来坐像があり、ほかにもいくつかの菩薩像が鎮座していました。ここが極楽浄土のようです。
- 極楽浄土に鎮座する阿弥陀如来坐像。
この「地獄極楽」が伝えたかったのは、地獄の恐ろしさと、極楽浄土へ行くのはそう簡単ではなく、相当な努力が必要だということ。私も身をもって体感しました。
江戸時代の人々の思いがそのまま遺されているというのは、本当に凄いですね。そういう意味で、ここはとても貴重な遺跡だと思いました。
- 探索日
- 2013/01/02 - 04
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