足尾銅山 旅行・観光ガイド ブログ
間藤駅のレンタサイクル・足尾銅山の廃線(旧足尾線)
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間藤駅
間藤駅は、わたらせ渓谷鉄道の終着駅です。足尾の中心は、2駅前の通洞なので、間藤はだいぶ町外れの雰囲気。周囲に目立った商店もなく、ひっそりとしています。
かつては、この先、製錬所がある「足尾本山」駅まで、貨物線が延びていました。現在も線路跡がそのまま残されています。
なお、歴史的には、まず足尾~足尾本山間が貨物線として開業し、その後、間藤駅まで旅客化されました。間藤駅から先は、貨物専用線だったようです。
- 無人駅だが立派な駅舎。陶芸教室や貸自転車がある。
- 清潔感のある待合いスペースがある。
間藤駅にはレンタサイクルがあります。ちょっと分かりづらいのですが、駅舎の隣に陶芸教室があり、その裏口から声を掛けると係の人が対応してくれます。
時間帯によっては、係の人が出払って不在の場合もあるため、確実に利用したい時は、前もって電話予約をしておくことをおすすめします。
- 駅舎の裏口から声をかける。
自転車は、普通のママチャリとマウンテンバイクから選べます。電動アシストは「あるけど故障中」だそうで、直す気が無さそうなので、今後も期待しない方がよさそうでした。
なお、間藤駅から先は、緩やかな上り坂になっています。ただ、さほど勾配がきつくないのと、距離も短いため、ママチャリでも難なく走れると思います。
- レンタサイクルはママチャリとマウンテンバイクから選べる。
古河キャステック
間藤駅の向かいには、古河キャステックの工場があります。古河機械金属の子会社で、耐熱鋳物を生産しているようです。
ここはかつて、足尾銅山の「工作課」や「庶務課 分析係」などが置かれていた場所で、銅山に関わる土木・設備の工場でした。
下間藤(しもまとう)
間藤駅~本山地区のうち、間藤駅に近いエリアです。上間藤、赤倉とともに、足尾を代表する商業地だったといわれます。
当時、集落の規模は200戸もあったそうですが、現在は最盛期の1/4にも満たない戸数となり、空き家も増えています。
- 営業中の商店は少なく、静かな街並み。
かつて下間藤には、青果・鮮魚店、菓子店、飲食店、服屋などが建ち並び、かなりの賑わいだったことが想像されます。
また、下間藤地区には、上の平・下の平と呼ばれる社宅群がありました。
- 青果も扱っている個人商店。
下間藤の踏切跡
貨物線はここで道路を横切り、川の対岸に繋がるガーター橋を渡ります。
2009年に来た時には、きれいにレールが残っていましたが、今回の訪問時には、間藤側のレールが片方撤去されていました。どうやら線路跡が駐車場として利用されているらしく、レールが邪魔だったようです。
- 同じ場所を2009年9月に撮影した写真。
踏切のそばで地元の方に声を掛けられました。「鉄道マニアか?」と訊かれ、足尾の廃線を見に来たことを伝えると、いろいろと話をしてくれました。
曰く、古河鉱業は、悪者扱いばかりされているけど、亜硫酸ガスから硫酸を取り出す技術を初めて実用化したのは古河だし、鉱山では沈殿池を何度もくぐらせて鉱物を採取する仕組みがあったし、非常に先進的なリサイクル技術を持っていた、と。
確かに、公害ばかりではなく、当時様々な技術が足尾で生み出されたことを高く評価する声があるのも事実です。
- この先にガーター橋がある。
下の写真は、さきほどの地元の人が「ここは足尾の七不思議と言われているんだよ」と言っていた場所です。渡良瀬川を渡るガーター橋が歩道とクロスしているのですが、その高低差がほとんどありません。
- 桁高が異常に低いガーター橋。
この歩道橋は、現在通行止めになっていますが、当時は本山小学校への通学路になっていたそうです。なるほど、子どもであれば、あの高さは問題にならないかもしれません。
おそらく歩道橋が先にできていて、後から線路を通すことになって、無理のある設計になったのでしょう。
- 水力発電所の跡。木造の建屋があったらしい。
本山小学校
旧足尾町立本山小学校は、私立古河足尾銅山尋常高等小学校として、明治25年に開校。その後、公立の小学校となりました。
最盛期には、数千人の児童数を誇ったといいますが、平成17年に足尾小学校に統合され、現在は廃校となっています。
- 本山小学校の校舎。足尾小に統合され廃校となった。
本山小学校は、集落がある間藤・赤倉地区とは対岸(この地区を向間藤と呼ぶ)に位置し、橋梁で繋がっています。
現在、本山小学校は廃校となっているため、この橋梁はほとんど使われていないようです。本山小学校へ続く道は、獣の糞が散乱しているため、自転車で通る際には注意が必要です。
- 廃校となった本山小学校の正門。
本山小学校の脇を貨物線が通っていました。
線路跡はまだ残っており、小学校近くの道から見下ろす形で確認できます。
- 貨物線はこの先トンネルに入る。
上間藤(かみまとう)
足尾銅山の近代化に伴い、上間藤の人口は飛躍的に増えていったそうです。昭和初期に、上間藤だけで1,500人を有したという記録が残っていますが、最盛期はもっと多かったと思われます。
- 足尾赤倉郵便局(住所は上間藤)。
上間藤には「深沢社宅」と呼ばれる社宅群が造られました。何度か大火に襲われるも、昭和39年には84世帯353人の居住が記録に残っています。
レンガ積みの壁は、当時造られた防火壁と思われます。
南橋社宅(福長屋)
南橋(なんきょう)は、元々本山坑へのアクセス路として整備された土地でした。
明治時代に社宅が建設され始め(当時、福長屋と呼ばれた)、昭和38年には、89世帯351人が暮らしたそうです。
本山小学校の前身となる古河足尾銅山尋常高等小学校は、当初この地で開校。その後、現在校舎がある向間藤に移転しました。
- 旧南橋社宅。市営住宅として今も利用されている。
なお現在、南橋社宅は市営住宅になっており、まだ居住者がいます。ただ、その数は年々減っているようです。
2009年には、一区画に6棟建っていましたが、今回訪問時には、3棟に減っていました。居住していた方が転居したか、亡くなられたのだと思われます。
- 南橋社宅を2009年9月に撮影した写真。
赤倉(あかくら)
赤倉は、本山坑、および本山製錬所に最も近い地区になります。
最盛期には、140軒の店舗が建ち並んだといわれ、商業の中心地でした。
- 集会所のような平屋の建物は、足尾児童館。
赤倉のロータリーに差し掛かると、本山製錬所は目の前です。
ここは、バスの停留所になっているほか、公衆トイレやベンチもあり、観光客が休憩できるようになっています。
周囲を見渡すと、商店街の跡と思われる家々が建ち並んでいて、一部は今も営業しているようです。
- 赤倉地区の中心ロータリー。左手が本山製錬所と本山坑。
銅山の中心機能が、本山から通洞へ移った後も、賑わいは消えなかったといいます。
しかし、閉山により人口は急減し、平成11年時点で186人、現在はもっと減っていると思われます。
ふと、「足尾銅山労働組合」の看板が目に入りました。人の気配はありませんが、建物の様子を見ると、まだ活動しているようですね。
- 「足尾銅山労働組合」とあり、まだ活動している様子だった。
- 探索日
- 2014/05/04 - 05
このレポートには、さば柄氏 ・ nokinoshi氏 からご提供いただいた写真が含まれています。
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